百合とお菓子と

パンナコッタ(@yuridake2018)の百合ブログです

『やがて君になる 佐伯沙弥香について2』感想 佐伯沙弥香の自己評価の低さについて

佐伯沙弥香と七海燈子の、本編では描かれなかった空白の一年が小説化。しかも担当作家は前作に引き続き入間人間氏。そんな夢のような企画である『佐伯沙弥香について2』(以下『ささつ2』)は、事前情報から抱いていた大きな期待にいとも容易く応えてくれた。次第に親友と呼べる間柄になっていく沙弥香と燈子、その過程で沙弥香が知る燈子の真実、知った上で導かれる沙弥香の答え。それら全てが大胆な筆致を以て、けれど決して原作と乖離することなく描かれていたと言って良いだろう。

そんな作品だけに、『ささつ2』には語るべきことが多い。山積みだ。じゃんけんの意義、小糸侑との友人関係、大学で出会った後輩の正体。他にもいろいろあるが、今回は(今回も?)そのいろいろの大半は置いといて、一つのテーマに絞って書いていくことにする。

そのテーマとは、周囲からの高評価に比して低い沙弥香の自己評価だ。

『ささつ2』において、沙弥香のそういった側面は繰り返し描かれる。

 

「優しいですね、先輩」

「尊重しているだけよ」

(P20・地の文省略)

 

 

 

 「二位だって。凄いじゃん」

「一位じゃないわ」

(P71・地の文省略)

 

 

 「燈子。あなたは、美人よ」

「沙弥香もね」

「えっ」

「そんなに驚く?」

「言われたこと、あまりないから」

(P91P92・地の文省略)

 

 このように、周囲からの高評価を自ら低めに修正する場面が散見されるのだ。

けれど試験で学年2位をとるのは凄いことだし、美人も優しいも言われているのは原作と『ささつ1・2』を含めて上記の場面だけではないからどれも的外れな評価ではないはず。

ではこの自己評価の低さはどこから来るのか。その起源は前作から再三語られてきた沙弥香の特質ではないだろうか。それは『ささつ2』でも早々に提示されている。

理解が早いということは、臆病になるということ。

(中略)

私は、自分という人間について知らないことがほとんどない。

限界さえ、見渡せばすぐに見つけることができた。 

(P29)

 限界を理解するということは、もはやその先に進むことが出来なくなるということだ。それは同時に、自分が今いる領域よりも上があると明確に認識することを意味する(とはいえ「美人」に関しては沙弥香より美人なんてそんないるのかな……という)。しかも沙弥香の場合、その認識が極めて客観的な分析に基づいているのが厄介だ。沙弥香は周囲の人間と比べて優秀であることは自認していて、決して過剰に卑下しているわけではない。

そうして揺るがしがたい到達不可能な上位の領域を認識した時、自分が今いる領域への高評価を素直に受け取るのは困難だろう。だからこそ、周囲からの評価と比べて沙弥香は自身を低評価するのではないだろうか。

原作も交えた余談ではあるが、自己評価の低さの様態という点で沙弥香と燈子は綺麗な対比を形成している。自己評価が低かったところは共通していているが、燈子は侑の言葉と生徒会劇の成功というきっかけを得てからとんとん拍子に自己肯定に辿り着いた。それはおそらく、沙弥香と対照的に燈子の自己評価の低さが、姉になろうとしすぎることによる自身への無理解に由来するからだろう。自身のことが分からないから、燈子は劇のあとどこへ行けば良いか分からなかった。それがかえって燈子に限界を見せなかったということなのだと思う。だから、きっかけができたことで自己肯定に辿り着けたのではないかと。

 

 

『誓いのフィナーレ』はTVシリーズであるべきだったって本当?

久石奏、良かったよね……。

というわけで、今回は『響け! ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜』(以下『誓いのフィナーレ』)についての記事。
前置きは短めで、手早く本題に入っていきたい。
『誓いのフィナーレ』に纏わる論点の一つは「映画でなくTVシリーズであるべきだったのではないか」というものだ。原作をカバーするのに映画一本の尺は短すぎるという声は公開前からあったし、公開後もあまり減っていないように見える。
実際、『誓いのフィナーレ』は原作のエピソードがかなりの部分カットされている。その結果として原作よりも分かりにくい作品になっているのも間違いないだろう。
そう言うと、『誓いのフィナーレ』を映画として公開したのは失策であるように思えてくる。
しかし、僕はそれと反対の立場をとりたい。
何故なら『誓いのフィナーレ』は原作が直接的に描写した要素をなきものとして扱ったのではなく、かなり遠回しに、けれど緻密かつ誠実に描いてみせた作品だからだ。
その傾向が顕著にあらわれているのが、部長である吉川優子の頑張りや葛藤の描き方だ。
関西大会直前、優子は大好きな中瀬古香織と再会する。そこで発動される「まじエンジェル」に、側にいた一年生は困惑していた。これは、部長としての優子が自身のああいった側面を完璧に封印してきたことを意味する。しかし、香織の登場によりつい素が出てしまったのだ。
つい素が出てしまう。それは、普段の優子が努めて部長らしく振る舞っているということだ。ごく自然に部長らしく振る舞えるほど、優子は器用ではない。
以上のようなことを、「まじエンジェル」と一年生の反応だけで想像することができる。それが『誓いのフィナーレ』という映画だ。この特徴は、優子に関してだけでなく全編に渡って浸透している。
確かにTVシリーズならより分かりやすい直接的な描写ができただろう。しかし、このような想像の余地を広く残す構成を僕は高く評価している。こういう構成だからこそ、結果発表直後に泣き崩れる(後ろ姿だけだから泣いてない可能性もある)優子と、優子を支える夏紀の姿が映えるのだ。

『吸血鬼ちゃんX後輩ちゃん』はハッピーエンドの夢を見るか?

いかにもライトなタイトルから繰り出される、過酷で冷徹で重い一撃。このスタイルの作品としては『魔法少女まどか☆マギカ』が広く知られているが、『吸血鬼ちゃんX後輩ちゃん』もそれに該当し、かつ指折りの傑作と言って良いクオリティだったかと。1巻のクライマックスで事実を明かす構成の上手さもさることながら、その後も出落ちで終わらず蝶鬼と花嫁のドラマを丹念に描き切っていた。

そんな『吸輩ちゃん』で特に注目されたのは、最後にどう締めるのかというポイントだろう。確定された死という、バッドエンドの可能性を大いに孕んだ要素がそうさせた。「治療法は見つかるのか」「見つかったとしてそれに代償はあるのか」「見つからなかったら沙羅とアイリス、紫苑と葵衣は死や別離とどう向き合うのか」etc.。

結論を言えば、治療法の発見は間に合わなかった。沙羅は助からず、葵衣は眠りにつき治療法の発展を待つ道を選択した。

しかし、この物語はそこで終わらない。最後の最後に、沙羅が遺したビデオレターで沙羅=瑞月の生まれ変わりであることをアイリスは知る。直後にアイリスは蛹化、その最中に次の生まれ変わりでも必ず沙羅の生まれ変わりを探すと約束した。

そしてエピローグ。沙羅とアイリスと同じ外見をした二人が藤ヶ嶺学院で出会うところで、物語は幕を閉じる。

果たしてこれはハッピーエンドなのだろうか。絶対的な別れという最大のバッドエンドは回避されたと言って良いかもしれない。しかし、ハッピーエンドと言い切るのもなかなか難しい。

なぜなら、仮にエピローグの二人が沙羅とアイリスの生まれ変わりだとして、彼女たちが沙羅とアイリスの同一存在であるとは限らないからだ。そのことは、他ならぬ沙羅自身が言葉にしている。

 

僕は生まれ変わる前瑞月でした

(中略)

黙っててごめんね…僕のわがままで…先輩には僕自身を好きでいて欲しかったから

 

 以上を見れば分かるように、記憶を取り戻してなお沙羅は自身と瑞月を同一視していない。これは、エピローグの二人にとっても沙羅とアイリスが自身と異なる存在である可能性を示唆している。

だから、生まれ変わった二人が添い遂げる未来があったとして、それが沙羅とアイリスにとってのハッピーエンドたり得るのかという疑問が残るのだ。もし記憶を取り戻した二人が沙羅とアイリスを自身と同一の存在と認識すれば、それは壮大な遠回りを経た完全無欠のハッピーエンドだろう。しかし、そうでなかったならば。

とはいえ、そんなことは沙羅もアイリスも織り込み済みだろうとは思う。それでもなおあの選択をして、あれだけポジティブな想いと共に生まれ変わりを果たしたのだから、『吸輩ちゃん』はハッピーエンドだったと言ってしまっても良いのかもしれない。

 

 

 

 

『スローループ』の紹介とか感想とか 全百合のオタクにおすすめしたい作品

今、日常系×趣味をテーマとする作品が波にのっている。キャンプをテーマとした『ゆるキャン△』が、ちょうど一年ほど前にスマッシュヒットをとばしたことは記憶に新しい。また『ヤマノススメ』も3期が放送され、僕の観測範囲内では1期2期以上の盛り上がりを見せていたように思う。

そんな人気ジャンルに、新たに一つの作品が加わった。うちのまいこ氏『スローループ』である。連載誌はきららフォワードだ。

 

スローループ (1) (まんがタイムKR フォワードコミックス)

スローループ (1) (まんがタイムKR フォワードコミックス)

 

 

表紙を見れば一目瞭然だが、本作のテーマは釣りだ。釣りのことなんか分かんねえな……という向きもあるとは思うが問題はない。釣り知識の解説はきちんとしてくれているし、そしてこれが何より大切なことだが、解説パートが劇の進行に不自然さを与えていない。かくいう僕も釣り知識には乏しく、この作劇の上手さには随分助けられたクチだ。

だからみんな安心して『スローループ』を読もう! と記事を締めくくるのは簡単だろう。とはいえ、それだと僕としても不完全燃焼感は否めないので、ここからは多少のネタバレも交えて本作の見所を書いていこうと思う。ネタバレなんて絶対許さないぞ、という向きは僕のブログは読まなくて良いので『スローループ』を読んでください。

 

見所① 亡き父から教わった釣りが繋ぐ義理の姉妹の関係

本作の核となるのは、互いの親の再婚により義理の姉妹となった小春とひよりの関係性である。二人は最初から順風満帆な仲良し姉妹ライフを送る……ことはできず、表面上は普通に接していながらもぎこちなさが抜けきらない。胸の内の葛藤や、相手への配慮。そういったものが、二人を元の赤の他人のままに留めていた。

そこで二人を繋ぐのが、釣りという趣味でありテーマだ。釣りを介してコミュニケーションを取り、互いを受け入れ、胸の内を明かしていく。その様子が大変微笑ましい。

ここで重要なのは、釣りがひよりの亡き父から受け継がれた趣味である点だ。新しい家族ができ、それを受け入れてなお、過去確かに存在した家族の形は失われない。ひよりの悩みが変化に対する戸惑いであったことを踏まえれば、釣りがこのような形で機能することは自然であり、また大きな意義も内包している。

 

見所② 一見して誰とでもすぐ仲良くなれる系だが実は不器用な小春ちゃん

明るく元気で好奇心も旺盛。晴れてひよりの姉となった小春の性格は、おそらくそういった言葉で表現できるだろう。3月の海に飛び込もうとしたあたりから、それは明白だ。

そんな小春のことだから新しい家族ともすぐに100%打ち解けるのだろう。そう思っていたが、実際には前述の通りとなった。ひよりに対してそうなのだから、新しい母親に対しては言うまでもない。同じ家にいることに気まずさも感じている。

しかし、小春は不器用なだけではない。不器用ながらも状況をポジティブに受け入れ、無理せず徐々に改善していこうする。そういう強さを、小春は持っているのだ。「あなたは…うちの母親と気まずかったり…するの?」とひよりに尋ねられた時に、「まーちょっとは!」と元気に笑顔で答えてみせたことはその象徴だろう。その瞬間の笑顔は、強さは、小春が不器用であるが故に際立っていた。

 

見所③ 幼馴染みに踏み込めなかった恋ちゃん

本作にはもう一人の主要人物がいる。ひよりの幼馴染みである恋である。幼馴染みなのだから、恋は当然にひよりの父が亡くなった時とその後のことを知っていて。そして知っているからこそ、きっと落ち込んでいるだろうひよりに踏み込むことはできなかった。そのことに対する後悔が、小春という存在によって膨れ上がっていく様子は見ていてこちらが辛くなるほどだ。

しかし、恋の良いところはその後悔を他人、特に小春への嫌悪や怒りに変換しない所だ。むしろ小春を素直に認め、その上で二人を微笑ましく見守るという新しい役割までちゃんと見つけてしまうのだから凄い。恋ちゃんマジ良い子。

 

 

僕が思う『スローループ』の見所は主にこの三点である。想定していたより長い記事になったが、単行本が1巻しか出ていない段階でもそれだけ語れるくらい良い作品ですよということで。打切りだけは避けてほしいので、ほんとみんな読んでください。『スローループ』をよろしくお願いします。

 

 

『雨と君の向こう』感想 ~百乃モトの圧倒的な演出力にやられた~

ずっと楽しみにしていた『雨と君の向こう』の単行本がようやく出た。原作は百乃モトではないが、それでも本当に待ちに待った作品である。

それなのに小刻みに出ていたWEB連載版をあえて読まなかったのは、本作に限らず僕が単行本派だからというのもあるのだが、それよりなにより連載版はあくまでもラフ状態らしいことが大きかった。初見は完成形が良い。百乃モト作品のオタクとしては、そんな強い気持ちが大いに沸き上がったのである。

で、その完成形たる単行本を読み終えた感想。

待ってて良かった!!!!!!!!!!!!

柄にもなく叫んでしまうくらいには圧巻の作品だった。読まないとはいえ記念にラフ版の紙媒体も買ってはいたので、単行本読了後に両者を比較してみたがその違いは歴然。特に終盤、雨の中涙を流す亜紀なんかは迫力とか存在感とかオーラとかが全然違う。感無量だ。

とはいえ、完成形が凄すぎるだけでラフ版も十分に凄いのは流石の百乃モトといった所か。いやほんと何なの百乃モト......。

さて、そんな圧倒的な演出力を誇る百乃モトだが、氏の作品には一つの特徴がある。ぶっちゃけ個々の要素やプロット自体に目新しさは乏しいのである。『キミ恋リミット』の三角関係も『私の無知なわたしの未知』の家族絡みな因縁も『夕凪マーブレット』の過去の傷と向き合うガールミーツガールも、それ自体は百合漫画ではよくあるネタだ。目新しさを獲得しようとするなら、それらに何かしら別の要素を組み合せるか、誰もが予想できない驚愕の展開なり息もつかせぬ複雑怪奇な展開なりを用意することになるのだろうが、百乃モト作品にはそういったものがこれといって見当たらないことが多い。

当然、これはディスっているわけではない。百乃モトが凄いのは、そんなありきたりさが陳腐さに繋がるのを演出力と構成力で防ぎきってみせている所なのだから。むしろ、百乃モト作品の場合は斬新さや複雑さはノイズだとすら思えてくるのだ。

『雨と君の向こう』は、事あるごとに生徒である亜紀にからかわれる先生が、亜紀の家庭の問題に次第に踏みこむようになり、最後には彼女を救うという内容だ。これ自体もやはりありきたりである。そしてありきたりであるが故に、百乃モトがこれを書いて面白くならないわけがないのである。

冒頭一頁目からもうずるい。その瞬間の亜紀の様子は、本作においてとりわけ重要であろう、儚さを内包した亜紀の美しさを理解するに十分なインパクトがあった。いや、降り頻る雨を前に一人ぽつんと立つ女の子のロングショット後にぐっとカメラが寄って、そうしたらあんな美少女だったとかずるいでしょ......。先生! 早く守ってあげて!

そうして始まったこの物語は、一事が万事そんな最高の演出と共に収束へと向かっていった。最後に先生のもとから去りゆく亜紀を太陽の光が照らすのは、第1話で亜紀が雨の中駆け去るシーンの再演であり対比でもある。これもありきたりと言えばありきたりな構造だが、百乃モトはそこもばっちり珠玉の演出で仕上げてくれた。最の高である。

とまあ僕は百乃モトのファンなので、当然のように百乃モトを中心に本作の感想を書いたわけだが、本作の原作者は桜家ゆきのだ。最後に、少しくらいは原作者についても言及しておきたい。氏の作品といえば、『名もなき死体の私とあなた』が題名も内容も鮮烈だったが、思えば両作には共通するポイントが多々ある。ちょっとダメな所もある大人の女性が、自分にちょっかいかけてくる年下少女の家庭問題に関わっていくあたりはそっくりだ。その問題がセクハラを含んでいる所も共通点だろう。そういう話が好きなんだろうか。それを確かめるためにも、氏の作品をもっと読まなければ。

 

『SSSS.GRIDMAN』最終話の命論争は何だったのか

samepa.hatenablog.com

 

こんな記事を見かけたので、それを受けて思ったことというか、「それはこういうことなのでは」みたいなことを書いていきます。主に「有限の命vs.無限の命」の話についてです。百合専門ブログとしてちゃんと六アカの話も絡めます。

目下、『SSSS.GRIDMAN』で物議を醸しているのは最終話のこの辺のやりとりです。

 

アレクシス:限りある命の君では、無限の命を持つ私には勝てないよ

グリッドマン:そんなものは命ではない!

(中略)

グリッドマン:これが、命ある者の力だあ!

アレクシス:これが、限りある命の力かぁ......

おそらくは『キャプテンアース』の影響下にあるだろうこの流れが、そこに至るまでの過程と別物すぎやしないかと指摘されているわけですね。乱暴にまとめると、「そんな話してた?」ということ。

で、この指摘に対する僕なりの回答がこちらになります。

 

命論そのものに大した意味はなく、そのやりとりを通して別の、『SSSS.GRIDMAN』が丁寧に描き続けたテーマをより強固なものにする狙いがあったのでは

 

こう言うからには、その別テーマが何かについても回答を用意しています。それがより顕著に、より分かりやすく描かれたのが最終話のここ。

 

アレクシス:アカネくんの怪獣から生まれた玩造物、偽りの人間、レプリ    コンポイド、君たちはアカネくんのために生まれた造り物にすぎない。自分を人間だと思っている造り物。その造り物と友達の神様。悲しいよねえ

六花:悲しいかどうかは、私たちが決める

このように、『SSSS.GRIDMAN』は「自分のことは自分で決める」というテーマを内包しています。また、そこに「誰に否定されようとも」という要素が込められていることも重要でしょう。現に六花は、「友達だって思い込んでるだけなんだよ!」と当のアカネに否定されても、「私はアカネの友達」と頑なに譲りませんでした。

六花だけではありません。例えば内海。自分が何もできないと気に病み、病院でウジウジしていた所で六花から「内海くんは響くんのなんなの」問われた彼は、逡巡しながらも「俺は、裕太の、友達だよ!」と答えます。ここで大切なのは、六花からの問いかけが「内海くんは響くんの友達でしょ⁉」といったものではなかったこと。結論を出したのは内海自身、「自分のことは自分で決める」を体現しています。

以上を踏まえ、今一度問題のグリッドマンとアレクシスのやりとりを見てみます。すると、なにやら様子がおかしいことが分かります。

グリッドマンはしれっと「限りある命を持つ者=命ある者」で完結させていますが、実はアレクシス、そこは一切認めていないんですね。あくまで「限りある命」という言い方にこだわっています。もし認めているなら、「限りある」という修飾は不要で単に「命ある者の力」か「命の力」、もしくは「真の命の力」という表現の方が適切でしょう。

このことは、「自分のことは自分で決める」というテーマが打倒されるべき悪役であるアレクシスにすら与えられていることを意味します。正義の味方であるグリッドマンに否定されても知ったこっちゃないというのは中々に痛快な話であり、テーマに対する最大限の肯定とも言えるかと。

 

僕の解釈としてはざっくりこんな感じです。この件に関しては様々な解釈があると思いますので、その内の一つとして読んでもらえたらと思います。

 

 

 

『やがて君になる 佐伯沙弥香について』の小学生編を考える

『ささつ』って最初に言い出したの誰?

ツイートまとめを除けば新年最初となる記事の始まりがこれなのは、自分でもちょっとどうかと思いますが、結構気になるので知ってる人がいたら教えてください。

はい、そんなわけで今回は『やがて君になる 佐伯沙弥香について』の感想なり雑感なりを書いていきます。

タイトルからも分かるように、『ささつ』は漫画『やがて君になる』登場の佐伯沙弥香を主人公とした外伝小説。原作でも語られた中学生時代と、原作には影も形もない小学生時代が描かれました。

『ささつ』を読み終えて、真っ先に浮かんだのが「小学生編はなんのために描かれたのか」という疑問でした。改めて考えてみると、なぜ最初の感想がそれだったのか謎ではあります。というのも、ヒントは中学生編でばっちり書かれていたからです。それも、トリもトリ、最後の一文。

私は、女の子に恋することしかできないんだって。 (P211)

この一文は、進学先の高校で再び女の子を好きになった沙弥香の「納得」*1を示すもの。中学時代に同性との恋愛で苦い経験をし、友澄女子を離れてなお自身の性質が変わらなかったことで、沙弥香はようやくそれを得ることができました。

そんな沙弥香と対極にある人物が、他ならぬ中学時代の沙弥香の恋人である柚木千枝です。千枝の感情は、「憧れ」「遊び」「気の迷い」といった類のものでした。それは本人の口から語られており、また、沙弥香も以下のように評しています。

 先輩が恋していたのは、私じゃなく恋というそれそのもの 。(P200)

 恋に恋する千枝と、女の子に恋することしかできない沙弥香。そうした対比関係を強調し、女の子に恋することしかできないという沙弥香の性質を明瞭に描く。そのために(少なくともその役割の一つ)小学生はあるのではないでしょうか。

小学生編において、沙弥香は当時の習い事の一つであるスイミングスクールで一人の女の子と出会います。名前が語られないので、百合のオタクは「小5」と呼んでいますね*2

この「小5」、本人に自覚はないながらも、おそらくは沙弥香に恋していました。沙弥香はそれに気づいています。だからか、はたまたそれとは関係ないのか、沙弥香もまた「小5」に意識を傾けるようになっていきました。そこから始まるほんわか百合......はもちろんなく、二人の結末は読者が知っての通りです。「小5」に唇を首に押しつけられ、得体のしれない感情に恐怖した沙弥香は、一目散にスイミングスクールから逃げ出しました。無粋を承知で沙弥香に芽生えた感情を言葉にするなら、恋愛感情やそれに類する感情ということになるでしょう。

このエピソードが示すのは千枝との明確な差異、すなわち沙弥香にとって女の子への恋愛感情とは決して「憧れの対象」ではないということ。むしろそれは、沙弥香がはじめて自主的に習い事を辞めるほどの恐怖を与えるものでした。それでも中学時代に、そして高校に入って恋したのはやはり女の子。「私は、女の子に恋することしかできないんだって」。その記述に説得力があるのは、こうした経緯があるからではないでしょうか。

 

 

*1:「理解でもなく、諦めでもなく」という記述が重要である

*2:これも最初に言い出したの誰なんだ案件である