『SSSS.GRIDMAN』最終話の命論争は何だったのか
こんな記事を見かけたので、それを受けて思ったことというか、「それはこういうことなのでは」みたいなことを書いていきます。主に「有限の命vs.無限の命」の話についてです。百合専門ブログとしてちゃんと六アカの話も絡めます。
目下、『SSSS.GRIDMAN』で物議を醸しているのは最終話のこの辺のやりとりです。
アレクシス:限りある命の君では、無限の命を持つ私には勝てないよ
グリッドマン:そんなものは命ではない!
(中略)
グリッドマン:これが、命ある者の力だあ!
アレクシス:これが、限りある命の力かぁ......
おそらくは『キャプテンアース』の影響下にあるだろうこの流れが、そこに至るまでの過程と別物すぎやしないかと指摘されているわけですね。乱暴にまとめると、「そんな話してた?」ということ。
で、この指摘に対する僕なりの回答がこちらになります。
命論そのものに大した意味はなく、そのやりとりを通して別の、『SSSS.GRIDMAN』が丁寧に描き続けたテーマをより強固なものにする狙いがあったのでは
こう言うからには、その別テーマが何かについても回答を用意しています。それがより顕著に、より分かりやすく描かれたのが最終話のここ。
アレクシス:アカネくんの怪獣から生まれた玩造物、偽りの人間、レプリ コンポイド、君たちはアカネくんのために生まれた造り物にすぎない。自分を人間だと思っている造り物。その造り物と友達の神様。悲しいよねえ
六花:悲しいかどうかは、私たちが決める
このように、『SSSS.GRIDMAN』は「自分のことは自分で決める」というテーマを内包しています。また、そこに「誰に否定されようとも」という要素が込められていることも重要でしょう。現に六花は、「友達だって思い込んでるだけなんだよ!」と当のアカネに否定されても、「私はアカネの友達」と頑なに譲りませんでした。
六花だけではありません。例えば内海。自分が何もできないと気に病み、病院でウジウジしていた所で六花から「内海くんは響くんのなんなの」問われた彼は、逡巡しながらも「俺は、裕太の、友達だよ!」と答えます。ここで大切なのは、六花からの問いかけが「内海くんは響くんの友達でしょ⁉」といったものではなかったこと。結論を出したのは内海自身、「自分のことは自分で決める」を体現しています。
以上を踏まえ、今一度問題のグリッドマンとアレクシスのやりとりを見てみます。すると、なにやら様子がおかしいことが分かります。
グリッドマンはしれっと「限りある命を持つ者=命ある者」で完結させていますが、実はアレクシス、そこは一切認めていないんですね。あくまで「限りある命」という言い方にこだわっています。もし認めているなら、「限りある」という修飾は不要で単に「命ある者の力」か「命の力」、もしくは「真の命の力」という表現の方が適切でしょう。
このことは、「自分のことは自分で決める」というテーマが打倒されるべき悪役であるアレクシスにすら与えられていることを意味します。正義の味方であるグリッドマンに否定されても知ったこっちゃないというのは中々に痛快な話であり、テーマに対する最大限の肯定とも言えるかと。
僕の解釈としてはざっくりこんな感じです。この件に関しては様々な解釈があると思いますので、その内の一つとして読んでもらえたらと思います。