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パンナコッタ(@yuridake2018)の百合ブログです

『カタハネ(クロハネ編)』と『喰霊-零-』の意義 ―選べなかった悲劇/選んだ悲劇―

※本記事は『カタハネ』と『喰霊-零-』についてのネタバレを含みます

 

はじめに

互いを想い合う二人の内、一方がもう一方の命を奪うことでしか結末を迎えることができない百合。一口に百合と言ってもその内容は様々ですが、これほど悲劇性に富んだものもそうないでしょう。市井の者同士であれば続いていたであろう幸福な日々が、なんの因果か考え得る限り最悪の形で失われてしまう光景には、目を覆いたくなる気持ちを喚起させられます。

そんな悲劇的な物語として著名なのが、『カタハネ(クロハネ編)』と『喰霊-零-』。どちらも血の繋がらない二人の女性が姉妹同然の関係となり、やがて第三者の陰謀に巻き込まれ「殺し殺され」の関係に至るまでの物語です。

ここで注目したいのは、両作が世に出た時期です。『カタハネ』は2007年、『喰霊-零-』は2008年に発表されており、非常に近い間隔となっています。これほど類似した作品が狭い間隔で世に出た意義=相違点をどこに見出せば良いのでしょう。一方はハイファンタジーでもう一方はローファンタジーといった差異でしょうか。もちろんそれもアリだと思います。しかし、本記事で見出したいのはそういった表層の道具立てに依拠する意義ではありません。彼女たちが至った「殺し殺され」の関係に結びついた意義。それこそを見出したいと考えています。

 

 

カタハネ(クロハネ編)』と『喰霊-零-』の共通点

「はじめに」でも少し触れた両作の共通点ですが、そのディテールも含めて今一度整理します。

 

①血の繋がらない姉妹を中心とした物語であること

カタハネ(クロハネ編)』の中心となる「白の国」の王女であり人形調律師でもあるクリスティナ・ドルンと赤の国からの来訪者である人形(シスター)エファは、調律と演劇の練習のため共に過ごす内に姉妹として想い合うようになります。

同様に、『喰霊-零-』の土宮神楽と諌山黄泉も血が繋がっていないながらも姉妹の関係を結んでいきます。母を失い父も多忙のため孤独となった有力退魔師の家系にある神楽を、かつて家族を怨霊に殺害され土宮とは別の退魔師の家系に引き取られた過去を持つ黄泉が諌山家に迎え入れる所から二人の関係はスタートしました。

 

②妹が姉を殺めることで終わる物語であること

赤の国の陰謀により、エファには記憶石が仕込まれていました。そのためエファにはクリスティナが持つ白の国の人形技術がコピーされ続けたわけですが、結果としてエファの身体と精神は限界へと近づいていきます。物語の終盤ではすでにエファから記憶石を取り除くことはできず、また唯一情報の流入を防ぐことができる「二人が離れる」という術も使えない状態。そこでクリスティナが選択したのは、青の国によってエファに仕掛けられていたもうひとつの機能を利用することでした。その機能とは「愛しています」の一言を受けることで目の前の者を殺害するというもの。クリスティナは自らの命をエファの手で絶たせることで、エファへのそれ以上の情報の流入を防いだのです。

一方、黄泉は義理の父を謀殺され、受け継ぐはずだった家督を失い、さらには敵役である三途河の手により日常生活もままならない怪我を負わされました。そんな中彼女が手にしたのは『喰霊』のキーアイテム殺生石。それにより黄泉は身体の機能を取り戻したものの、同時に、憎悪に任せて暴れまわる悪霊と化してしまいました。結果として黄泉はその他の悪霊と同様に討伐対象となり、最後は神楽の手により「人の世に死の穢れを撒く者」として祓われることになりました。

 

③その結末が第三者の陰謀に巻き込まれた結果であること

前述のように『カタハネ(クロハネ編)』の結末は赤の国と青の国の陰謀が、『喰霊-零-』の結末は敵役である三途河の陰謀が招いたものでした。

 

 

カタハネ(クロハネ編)』と『喰霊-零-』の相違点

さて、ようやく本題です。

前述のように、両作は「義理姉妹モノ」「それが殺し殺されの関係となること」「その結末が第三者の陰謀に巻き込まれてのものであること」など、非常に類似した内容となっています。そんな二作が短い間に立て続けに世に出た意義、その一つは「意思の有無」という相違点にあるのではないでしょうか。

どういうことか。

カタハネ(クロハネ編)』において「愛しています」のトリガーが引かれてしまうと、「目の前の者を殺害する」という機能にエファは逆らえません。そこに彼女の自由意思はありません。以下は最後の場面におけるクリスティナとエファの会話です。

 

ク「……エファ」

エ「ダメです! 最後の言葉を言わないでください!」

(中略)

エ「いやです! 私は、ずっと、ずっと姫様を見つめて……」

ク「……エファ。わたくしは、あなたのことを」

エ「ダ……メ……言わない、で……」

ク「あなたのことを……愛しています」

 

一方で、『喰霊-零-』の神楽はどうであったのか。まず、彼女の身体にはエファに仕掛けられていたような機能はありません。また、そのような機能とは別に立場や人間関係といったものが絶対的な強制力を持つこともありませんでした。以下、決戦直前、神楽と黄泉の会話です。

 

黄「覚悟できた?」

神「あなたを殺す。人の世に死の穢れを撒く者を退治する、それが私達退魔師の使命」

黄「そう。おいで、神楽」

神「行くよ、黄泉」

 

このように、神楽は誰に強制されたわけでもなく退魔師としての使命を選択しました。神楽には、彼女と同じく退魔師であり黄泉とも深い関係にあった飯綱と同じ選択をすること、すなわち使命を捨て逃げることもできたはずです。しかし、神楽はそれをしませんでした。神楽は間違いなく自由意思を持って姉と慕った者を殺めたのです。

これが、両作の決定的な違いです。自分の意志とは無関係に慕った相手を殺める悲劇と、意志を持ってそうした悲劇。その性質が同じであるはずがありません。表層の筋書きレベルでは類似した内容でありながら、内実においては全く異なるものを描いた。それが、『カタハネ(クロハネ編)』と『喰霊-零-』なのです。

 

 

おわりに

百合が人気ジャンルの仲間入りを果たしてから、そこそこの月日が流れました。今後も、百合という魅力的なジャンルは発展を続けるのでしょう。その過程で、壁の一つや二つにぶつかることもあるやもしれません。例えば、目新しいネタの減少。新しい作品ができるごとに、未使用のネタの数は減っていきます。これはどんなジャンルでも避けられません。そうなった時、そのジャンルは衰退に向かうしかないのかというと、決してそうではありません。現代において、単発の新規アイデアでなく既存アイデアの流用や組合せでオリジナリティを生み出すのは当たり前。その好例が、本記事で扱った『カタハネ(クロハネ編)』と『喰霊-零-』です。00年後半に登場したこの二作は、同様の筋書きであっても使い方次第で独自の価値を創ることができることを証明し、百合の未来を明るく照らした作品なのです。