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パンナコッタ(@yuridake2018)の百合ブログです

『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン 外伝-永遠と自動手記人形-』感想 青春と姉妹愛の物語

『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン 外伝-永遠と自動手記人形-』(以下『永遠と自動手記人形』)、青春と姉妹愛の百合としてあまりにも上質すぎた……。

と、感慨は最初だけにして、ここからは真面目な文体で感想を。

『永遠と自動手記人形』は、外伝と称されている通りTVアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(以下『ヴァイオレット』)本編では描かれなかったエピソードとなる。

『ヴァイオレット』を見ていない人もいるだろうから、その内容をざっくり説明しておこう。主人公の少女・ヴァイオレットは孤児であり、その高い身体能力から武器として育てられ戦場を駆け続けた。『ヴァイオレット』は、そんなヴァイオレットが戦後「自動手記人形サービス」と呼ばれる手紙の代筆業を通して戦場以外での生き方を知っていく物語だ。代筆を依頼してくる「お客様」との交流と、戦時中に自身の上官であった男の喪失を受容する過程とが主な構成要素であった。

『永遠と自動手記人形』は後者の要素が薄く(軽く語られる程度)、前者に専心していた。構成は前半パートと後半パートによる二部構成。前半の「お客様」はイザベラ・ヨーク、本名エイミー・バートレット、後半の「お客様」はテイラー・バートレットという。バートレットという共通項は、二人が姉妹関係にあることを示す。ただし血の繋がりはない。二人の関係の概要はこうだ。捨て子であったテイラーを妹として拾い育てていたは良いが、エイミー自身も貧困のため苦しい生活を送っていた。先々やっていける保証もない。折りが良いのか悪いのか、そんな時に自身をエイミーの父親だと名乗る大貴族が「ヨーク家の娘」になることを求めてきた。傲慢もいいところの要請だが、「テイラーの面倒を見る」という条件を提示されたエイミーは首を縦に振り、二人は生き別れの姉妹となった。

さて。『永遠と自動手記人形』は、二つのキーワードに関して徹底した映像的こだわりを示していた。「鳥」と「牢獄」だ。京アニで「鳥」とくると『リズと青い鳥』の繊細な描写が自然に思い出されるが、『永遠と自動手記人形』の描写もまたそれに比肩すると言って良いだろう。

複数の鳥が飛んでいる姿から、『永遠と自動手記人形』はスタートする。その直下、船の甲板から空に手を伸ばす少女はテイラーだ。しかし、テイラーが伸ばした手は上空の鳥に全く届かない。さらに、船の一部であるワイヤーがテイラーと鳥を明確に分断している。

結論から言えば「鳥」はエイミーの比喩であり、この分断はエイミーとテイラーの世界が分かたれていることを示している。エイミー自身、在籍する(させられている)女学校を「牢獄」と呼んだ。実際、ヴァイオレットの入場直後に門が重々しく閉じる様子や、別れ際に門の「あちら」と「こちら」でヴァイオレットとエイミーが隔てられている様子、そしてダンスの最中に鳥の絵画を見つめるエイミーの様子などがその構図を物語っている。

しかし、『永遠と自動手記人形』の主眼はそういった物理的な閉塞感にはない。むしろそれを超越した精神的な繋がりにこそ重きを置いている。

その結節点となるのがヴァイオレットであり、彼女と姉妹の関係であり、彼女が代筆する手紙だ。三カ月の共同生活を経てエイミーはヴァイオレットの「はじめての友達」となり、テイラーは「友人の大切な妹」となった。そして、ヴァイオレットは二人の手紙を代筆するに至る。それにより伝えられるのは、二人にとって互いがいかに大切な存在であるかということ。そうしてエイミーとテイラーは、物理的(社会的)に断絶されていてもなお精神的な再接続を果たした。

その過程もまた、「鳥」が映像的に表現してみせた。デビュタントの直前、ヴァイオレットに手をとられるエイミー。そこからの一歩は、エイミー・バートレットとしてではなくイザベラ・ヨークとして生きていく決定的な一歩だ。しかし、それはテイラーの幸福な未来のための一歩でもある。だからこそ、エイミーとヴァイオレットの背後で無数の鳥が羽ばたくのだ。物理的社会的断絶が決定的になる瞬間、ヴァイオレットの手を借りてエイミーの精神はテイラーのいる世界に飛び立った。

そうした背景があるから、クライマックスで二羽の鳥が並走する姿は失われてしまった過去の思い出にはならない。反対に、「いまここ」に確かに存在する精神的な繋がりの表現として決して揺るがぬ強度を獲得した。

これが、『永遠と自動手記人形』が示した映像としてのこだわりの一部だ。

『永遠と自動手記人形』にはさらに多くのこだわりが込められ、(僕が観測できる範囲では)その全てに物語と密接に結びついた意味がある。新進気鋭の藤田春香監督の手腕と、それを具現化する京都アニメーションというスタジオのいかにクリエイティビティに富んでいるかを証明した傑作だったかと思う。