百合とお菓子と

パンナコッタ(@yuridake2018)の百合ブログです

『誓いのフィナーレ』はTVシリーズであるべきだったって本当?

久石奏、良かったよね……。

というわけで、今回は『響け! ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜』(以下『誓いのフィナーレ』)についての記事。
前置きは短めで、手早く本題に入っていきたい。
『誓いのフィナーレ』に纏わる論点の一つは「映画でなくTVシリーズであるべきだったのではないか」というものだ。原作をカバーするのに映画一本の尺は短すぎるという声は公開前からあったし、公開後もあまり減っていないように見える。
実際、『誓いのフィナーレ』は原作のエピソードがかなりの部分カットされている。その結果として原作よりも分かりにくい作品になっているのも間違いないだろう。
そう言うと、『誓いのフィナーレ』を映画として公開したのは失策であるように思えてくる。
しかし、僕はそれと反対の立場をとりたい。
何故なら『誓いのフィナーレ』は原作が直接的に描写した要素をなきものとして扱ったのではなく、かなり遠回しに、けれど緻密かつ誠実に描いてみせた作品だからだ。
その傾向が顕著にあらわれているのが、部長である吉川優子の頑張りや葛藤の描き方だ。
関西大会直前、優子は大好きな中瀬古香織と再会する。そこで発動される「まじエンジェル」に、側にいた一年生は困惑していた。これは、部長としての優子が自身のああいった側面を完璧に封印してきたことを意味する。しかし、香織の登場によりつい素が出てしまったのだ。
つい素が出てしまう。それは、普段の優子が努めて部長らしく振る舞っているということだ。ごく自然に部長らしく振る舞えるほど、優子は器用ではない。
以上のようなことを、「まじエンジェル」と一年生の反応だけで想像することができる。それが『誓いのフィナーレ』という映画だ。この特徴は、優子に関してだけでなく全編に渡って浸透している。
確かにTVシリーズならより分かりやすい直接的な描写ができただろう。しかし、このような想像の余地を広く残す構成を僕は高く評価している。こういう構成だからこそ、結果発表直後に泣き崩れる(後ろ姿だけだから泣いてない可能性もある)優子と、優子を支える夏紀の姿が映えるのだ。