百合とお菓子と

パンナコッタ(@yuridake2018)の百合ブログです

何を見せ、何を見せないのか ―『私は君を泣かせたい』感想―

祝・『私は君を泣かせたい』完結

というわけで、『私は君を泣かせたい』が3巻をもって完結したので、感想というか、色々考えたことをまったり書いていきます。いまさら? もう3巻出て一月くらいたつよ? という突っ込みは気にしない。気にしない……。

端的に言って、僕はこの作品が大好きです。百合ナビさんの第二回百合漫画総選挙の投票期限に3巻の発売が間に合っていれば、問答無用で1票を投じていたでしょう。

本作の何をそんなに気に入ってるかというと、主人公・相沢羊の人物造形とその演出です。相方とのかけあいが微笑ましいとか、もう一組の二人のすれ違いが切ないとか、他にも良い所を挙げたらキリがありませんが、僕の中で本作を現在の位置まで押し上げたのは間違いなくこの二点になります。相沢羊、最高。

まず前者、相沢羊の人物造形についてですが、このお方、とにもかくにもめんどくさい。百合でめんどくさい女の子なんて珍しくないじゃないか、というご指摘はごもっとも。百合においてはもはや、そういう子がいない方が違和感を覚えるかもしれません。ところがどっこい、相沢羊はそれに輪をかけてめんどくさい。めんどくさすぎて、相方の虎島ハナからは「お前まじでだいぶめんどくさいな…」と言われてしまいます。

相沢羊のめんどくささは、彼女が内に抱える複雑な思考に起因しています。人と深く関わることの煩わしさと、虎島ハナという友人と共にいることの心地良さ。前者を避ければ後者は得難く、後者を求めれば前者と直面することとなる板挟みの状況が、彼女の煮え切らなさの根底にあるのでしょう。その結果として、相沢羊はともすると自分でもよく分からない、他者からすればなおのこと意味不明な行動を多々とってしまいます。友人と不自然に距離をとるとか、逆に友人の跡をつけてみるとか……。

これだけでも相沢羊は十分に魅力的な主人公なのですが、本作をさらに昇華したのがその描き方。前述した演出の方になります。

それを一言で表すなら、「見せない演出」です。何を見せ、何を見せないのか、という点は僕がフィクションで特に重視しているポイントなのですが、本作はその点で非常に優れた作品でした。

見せないと一口に言っても、その種類は様々(ワンシーンを丸ごとカットする、ベッドシーンで影だけ描写するなど)あるでしょうが、本作が力を入れて「見せない」のは表情です。表情は漫画やアニメのような、視覚に訴えかける媒体において非常に重要なファクター。目を見開く、目を細める、顔を顰める、頬を緩める。それらによって、言語に頼らず登場人物の心理を明確に描写することができます。

ところが、本作のように相反する複数の感情を抱いた人物を描く場合は話が変わってきます。表情というのは、意図的に偽らない限りは良くも悪くもその瞬間にその人が抱えた一番大きな感情を表すものですから、同じくらいの大きさの感情を複数同時に示すのには不向きです。極端な例ですと、憎悪と親愛を一つの表情で表現するのは、不可能とは言わないまでも困難でしょう。それをクリアした本作の「見せない演出」が真価を発揮したのが、1巻・二人で家族モノを見た後に互いの帰路につく場面です。別れ際、相沢羊は学校で虎島ハナに気を遣い続けたことによる疲労を感じます。それは、居心地が良いはずの虎島ハナとの部活動が他ならぬ虎島ハナとの関わりが深くなったことで窮屈なものとなってしまったことで生じた(彼女をめんどくさい女の子たらしめている葛藤と直結した)疲労でしょう。その瞬間の彼女の表情を、やはり本作は見せません。代わりに彼女の心理を物語ったのは、別れの挨拶のために掲げられた彼女の左手です。はじめはきちんと伸ばされていた左手が、虎島ハナの視界から外れた直後に力を失ったようにしぼんでいく。この所作によって、はじめて得た他者との心地良い関係を維持しようとする意志と、それによって生じた面倒ごととの板挟みに疲れてしまった相沢羊の心理が表情を介さずに描かれたのです。

このように、『私は君を泣かせたい』は単純化困難なめんどくさい感情を、表情を隠した上で描写することに成功した作品です。故に、何を見せるのか、何を見せないのか、という点を重視してフィクションを読む癖のある僕とって、本作は非常に価値ある傑作となりました。本作が世に出たことを色々なものに感謝しながら、本記事を締めくくりたいと思います。ありがとうございました。