百合文芸コンテストに応募しました②
当ブログでもかねてより言及していた百合文芸コンテスト投稿作の二作目がようやく完成しました。
『少女の血肉は幸福となりて』
幸福なバラバラ殺人百合です。
正気を失いながら書きました。よろしくお願いします。
百合文芸コンテストに応募しました
パンナコッタです。
百合文芸コンテストに一作投げました!
『ユキの降る日に』というタイトルで載せています。
どうぞよろしくお願いします。
『ルミナス=ブルー』考察記事……の準備号
タイトルにも書いた通り、準備号です。
なぜ、準備号なのか。理由は簡単で、本格的に執筆するためのリソース(主に時間と体力)が圧倒的に不足しているからです。
はい、なんもかんも僕が怠惰なのが悪いですね……。
それはそれとして。じゃあ今何にリソースをつぎ込んでいるかというと、小説という形での創作活動です。現在カクヨムと小説家になろうにて一作を連載、pixivの百合文芸コンテスト用に二作を準備中といった感じ。
本当はそれプラスで記事も書きたいのですが、誠に遺憾ながら労働者という悲しき身分なので体力的にも精神的にもそれは難しく……。
そんな状況も一月の終わりには落ち着いているはず。というのも、百合文芸コンテストは1月でシメキリだし、連載中の作品も一月の関西コミティアに同人誌として出せたらしばらくは急いで執筆する必要もなくなるので必然的に時間ができます。
そこを、『ルミナス=ブルー』の考察記事に当てようと企てています。書くからにはちゃんとしたのを出したいですからね!
とはいえ、そこまでに完全にブログの更新が止まってしまうのも避けたい。さてどうしようとなったところで思いついたのがこの準備号。
「こういうことを書く予定です」といった簡易的な内容ならあまり時間も体力もかからないのでは? という怠惰な発想です。
まあそんな感じの記事なので、気軽に読み流しちゃってください。
では、さっそく。
○
『透明な薄い水色に』で百合界隈から多くの称賛を得た岩見樹代子氏の最新連載作。それが『ルミナス=ブルー』です。
それだけに大きな期待を背負った作品であり、連載開始時や単行本一巻の発売時には『透明な薄い水色に』に負けず劣らずの評判でしたが、どうやら売れ行き的にはあんまりだったようで、ツイッターでの打ち切り騒動も記憶に新しいかと思います。
そんな騒動もあってかボイスドラマをはじめとした宣伝の強化もありましたが、残念ながら十月に発売された第二巻で完結ということになってしまいました。本来ならどれくらいの長さであったのか、我々読者には知る由もありません。
そんな経緯を持つ本作ですが、だからといって出来が良くなかったわけではありません。なんなら僕は今年の完結作ベストだとすら考えています(現段階で『やが君』が単行本未完なので暫定ではありますが)。おそらく短縮されたのだろう尺の中で、考え得る限り最良の過程と結末だったのではないでしょうか。
といっても、それはあくまで僕の考え。僕の観測範囲をざっと見渡してみると賛否両論というのが実態かなという気はしています。
特にくっきり分かれているのが結末に関して。「たるたるには引いてほしかった」という声を多く耳に/目にします。
今回の準備号と次回の本記事で話をしたいのはこの部分です。「賛」の立場からあの過程と結末のロジックを説明できればなと考えています。
あまり話しすぎても「準備号とは……」となってしまうので、今回は着眼点だけを提示します。
主なものは以下の二点です。
①登場人物それぞれの視点
三人の心理とその動きから結末の妥当性・必然性を説明します
②俯瞰的視点、あるいは物語の意味上の視点
物語全体を見渡した時、そこにどのような構造があり、それがどう結末と結びついているかを説明します
かなりざっくりした説明ですが、ふーんそういう感じなんだくらいに思ってもらえれば。
本記事の執筆開始は一月ですが、完成と公開は二月かなと思います。けっこう先ですが、そのぶんだけいいものにする心積もりなのでその時はよろしくお願いします。
【宣伝】カクヨムにて百合小説の連載を開始しました
パンナコッタです。
記事タイトルの通り、今回は自作百合小説の宣伝になります。
『カサブランカを赤に染めて』と題して、現在プロローグを公開中。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054891453330/episodes/1177354054891453646
「たった一人の本当の友達」がテーマの青春劇です。よろしくお願いします。
毎週金曜日の夜に最新話を公開予定
※二部構成予定で、前半部の最終話公開から後半部の開始までに少し期間が空く可能性があります
『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン 外伝-永遠と自動手記人形-』感想 青春と姉妹愛の物語
『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン 外伝-永遠と自動手記人形-』(以下『永遠と自動手記人形』)、青春と姉妹愛の百合としてあまりにも上質すぎた……。
と、感慨は最初だけにして、ここからは真面目な文体で感想を。
『永遠と自動手記人形』は、外伝と称されている通りTVアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(以下『ヴァイオレット』)本編では描かれなかったエピソードとなる。
『ヴァイオレット』を見ていない人もいるだろうから、その内容をざっくり説明しておこう。主人公の少女・ヴァイオレットは孤児であり、その高い身体能力から武器として育てられ戦場を駆け続けた。『ヴァイオレット』は、そんなヴァイオレットが戦後「自動手記人形サービス」と呼ばれる手紙の代筆業を通して戦場以外での生き方を知っていく物語だ。代筆を依頼してくる「お客様」との交流と、戦時中に自身の上官であった男の喪失を受容する過程とが主な構成要素であった。
『永遠と自動手記人形』は後者の要素が薄く(軽く語られる程度)、前者に専心していた。構成は前半パートと後半パートによる二部構成。前半の「お客様」はイザベラ・ヨーク、本名エイミー・バートレット、後半の「お客様」はテイラー・バートレットという。バートレットという共通項は、二人が姉妹関係にあることを示す。ただし血の繋がりはない。二人の関係の概要はこうだ。捨て子であったテイラーを妹として拾い育てていたは良いが、エイミー自身も貧困のため苦しい生活を送っていた。先々やっていける保証もない。折りが良いのか悪いのか、そんな時に自身をエイミーの父親だと名乗る大貴族が「ヨーク家の娘」になることを求めてきた。傲慢もいいところの要請だが、「テイラーの面倒を見る」という条件を提示されたエイミーは首を縦に振り、二人は生き別れの姉妹となった。
さて。『永遠と自動手記人形』は、二つのキーワードに関して徹底した映像的こだわりを示していた。「鳥」と「牢獄」だ。京アニで「鳥」とくると『リズと青い鳥』の繊細な描写が自然に思い出されるが、『永遠と自動手記人形』の描写もまたそれに比肩すると言って良いだろう。
複数の鳥が飛んでいる姿から、『永遠と自動手記人形』はスタートする。その直下、船の甲板から空に手を伸ばす少女はテイラーだ。しかし、テイラーが伸ばした手は上空の鳥に全く届かない。さらに、船の一部であるワイヤーがテイラーと鳥を明確に分断している。
結論から言えば「鳥」はエイミーの比喩であり、この分断はエイミーとテイラーの世界が分かたれていることを示している。エイミー自身、在籍する(させられている)女学校を「牢獄」と呼んだ。実際、ヴァイオレットの入場直後に門が重々しく閉じる様子や、別れ際に門の「あちら」と「こちら」でヴァイオレットとエイミーが隔てられている様子、そしてダンスの最中に鳥の絵画を見つめるエイミーの様子などがその構図を物語っている。
しかし、『永遠と自動手記人形』の主眼はそういった物理的な閉塞感にはない。むしろそれを超越した精神的な繋がりにこそ重きを置いている。
その結節点となるのがヴァイオレットであり、彼女と姉妹の関係であり、彼女が代筆する手紙だ。三カ月の共同生活を経てエイミーはヴァイオレットの「はじめての友達」となり、テイラーは「友人の大切な妹」となった。そして、ヴァイオレットは二人の手紙を代筆するに至る。それにより伝えられるのは、二人にとって互いがいかに大切な存在であるかということ。そうしてエイミーとテイラーは、物理的(社会的)に断絶されていてもなお精神的な再接続を果たした。
その過程もまた、「鳥」が映像的に表現してみせた。デビュタントの直前、ヴァイオレットに手をとられるエイミー。そこからの一歩は、エイミー・バートレットとしてではなくイザベラ・ヨークとして生きていく決定的な一歩だ。しかし、それはテイラーの幸福な未来のための一歩でもある。だからこそ、エイミーとヴァイオレットの背後で無数の鳥が羽ばたくのだ。物理的社会的断絶が決定的になる瞬間、ヴァイオレットの手を借りてエイミーの精神はテイラーのいる世界に飛び立った。
そうした背景があるから、クライマックスで二羽の鳥が並走する姿は失われてしまった過去の思い出にはならない。反対に、「いまここ」に確かに存在する精神的な繋がりの表現として決して揺るがぬ強度を獲得した。
これが、『永遠と自動手記人形』が示した映像としてのこだわりの一部だ。
『永遠と自動手記人形』にはさらに多くのこだわりが込められ、(僕が観測できる範囲では)その全てに物語と密接に結びついた意味がある。新進気鋭の藤田春香監督の手腕と、それを具現化する京都アニメーションというスタジオのいかにクリエイティビティに富んでいるかを証明した傑作だったかと思う。
2019年上半期に単行本1巻が出た面白い百合漫画
どうも、パンナコッタです。
気分で文体をコロコロ変えることに定評、はないな、とにかくそんなブログですが、今回はこんな感じの文体でいきます。
さて、今回のお題は「2019年上半期に単行本1巻が出た面白い百合漫画」。どういう内容かというと……まあタイトル通りなので説明不要ですかね。
前置きが長くてもあれなので、さっそく紹介の方に移っていきます。
『ルミナス=ブルー』岩見樹代子著
写真を撮ることが大好きな転校生が、元カノ同士で今は友達同士ということになっている二人と出会う所からスタートする青春群像劇。今は友達同士といっても綺麗に割り切っているわけでもなく、何やら含むものや不穏な空気があるようで、そういう見ていてハラハラさせられる所が魅力の一つかと。
加えて、場面一つ一つに情緒が溢れているのも本作の強み。そこは岩見氏の前作『透明な薄い水色に』から引き継がれているものなので、どんなものか手軽に知りたいのであれば先にこちらを読んでみるのも良いかもしれない。
『スローループ』うちのまいこ著
義理姉妹モノ×アウトドア日常系なきらら作品。
詳しい紹介記事を前に書いているので、それを参照してもらえれば。
『ささやくように恋を唄う』竹嶋えく著
端的に言えば、日本語って難しいね……な青春モノ。「一目ボレ」の解釈によってお話が色々とこんがらがっていきます。『やがて君になる』のようなロジック重視の作風が好きなオタクにこそオススメしたい作品ですね。あ、主人公ちゃんがめちゃくちゃ可愛いですよ。そりゃ先輩もああなる……。
付け加えるなら、本作は構造面でもかなり凝っているので、分析的なことが好きなオタクにもうってつけだと思います。
『神絵師JKとOL腐女子』さと著
アニメ化が決定した『フラグタイム』の著者さと氏の最新作。キモオタムーブ全開のOLが、尊敬してやまない神絵師JKとエンカして仲を深めていくお話です。OL腐女子のキモオタムーブ、ちょっとマジでやばくてマジで面白いので一見の価値ありです。そのくせ百合シーンではかなり良い雰囲気出してくるのがずるい。いやその辺りは神絵師JKのおかげってところも大いにありなんですが。とにもかくにも、笑える百合漫画を求めているオタクが今手に取るべきはこれって感じの作品です。
『飛野さんのバカ』筋肉☆太郎著
真面目系女子がサボり系女子の世話をなんやかんや焼くお話。世話を焼く過程で色々とからかわれてしまうんですが、そこが微笑ましくて良い感じです。失礼ながら著者のペンネームは面白すぎるのですが、それに負けず劣らずヘンテコな性癖のオンパレードなので、そこも本作の強み。優しい世界とヘンテコな性癖が好きなオタクは今すぐ本屋にダッシュです。
『少女支配』総括 百合が好きで良かったと心の底から思える世紀の大傑作
『少女支配』は難しい。だから、完結からしばらく経ってもなかなかまとまった言及ができなかった。一方で、誰に求められたわけでもないけれど書かないわけにはいかないだろうと、謎の使命感だけは一向に消える気配がない。そんなもやもやを抱えて大体半年くらいが経ち、ようやく、ようやく何かしら書ける気がなんとなくしてきた。気がしてきただけなので、うまいことを書く自信は全くない。そういうわけなので、以下に連ねる文章はもしかすると、ひどく独りよがりで読みにくいものとなるかもしれない。しかし、作品に対する熱量だけは嘘偽りのないものにできるはずだ。というか、そうであってほしい。とにかくそんな気持ちで書くので、『少女支配』が好きな人もそうでない人も、時間があれば少しだけ付き合ってもらえるとありがたい。
ではでは。
○『少女支配』とはいかなる物語であったか
『少女支配』はこの上なく残酷な物語だ。そしてそれだけに、なにものにも侵食されない強固な関係性を描くことに成功した物語でもあった。
「あの山の向こう 何もなかったよ ナオ」
町を出た深冬は、エピローグにおいてそう口にした。苦しみに満ちた町に深冬を閉じ込め続けた山の先で待っていたのは、陰口や噂話が跋扈する世の中。一面では、そういったどうしようもなさを示した言葉でもあっただろう。
しかし、この言葉にはもう一つの側面がある。それは人と人の関係に纏わる側面だ。より具体的に言えば、それはナオと深冬の強くかけがえのない関係性を物語っている。
それを導き出すのは、「海」というキーワード。
物語冒頭、殺害した深冬の父の死体を埋め終えた直後に「この夏みんなで海行こう」とナオは提案する。それは、深冬が自由の身になったことの象徴としての提案だった。
読者の誰もが知っているように、彼女たちは結局みんなで海に行くことができなった。ナオは逃亡中に湖で行方不明、日菜は重傷で面会謝絶、和希は教師とのあれこれで手一杯だった上にそもそも深冬が嫌い。結果、幼馴染みグループはちりぢりになり、深冬はラストシーンで一人海に訪れることになる。
それが、この物語における変えようのない事実だ。
しかしいささか矛盾を孕んだ言い方が許されるなら、深冬の主観では事実たり得ない。
先述した通り、ナオが行方不明になったのは逃亡中に深冬と訪れた湖でのこと。そう。それはどうしようもなく湖でしかなかった。
にもかかわらず、二人はそれを海と認識した。夜がもたらす暗闇がそうさせたのだろう。事実としてそれは海ではなかったけれど、二人にとっては間違いなく海だったのだ。
翻って、山の向こうにある本物の海を深冬はどう認識したか。
「何もなかった」のだ。綺麗とか広いとかではもちろんなく、煩いとか寒いとかいったネガティブな感想ですらない。深冬にとって、本物の海は単なる無でしかなかった。
湖は海たり得るのに、本物の海に対してはなぜそんな認識なのか。答えは明白だろう。
「どうでもよかったから。ナオ以外なんて」
それは海もまた深冬にとってどうでもよい存在であったことを意味する。そんなものより大事なのはナオ。ナオが海に行こうと言うから笑顔で同意するし、ナオと一緒だから湖だって海になるのだ。
さて、ここでもう一度あの言葉を振り返りたい。
「あの山の向こう 何もなかったよ ナオ」
繰り返しになるが、この言葉は深冬にとって世界が如何にどうしようもないものであるかを示している。しかし、ここまで述べてきたことを踏まえれば、それだけではないのだと言うことも認められるのではないだろうか。すなわち、この言葉は深冬にとってナオが全てであることをも象徴しているのだ。
苦しみに満ちた場所を超えてすら何もなかった残酷さが、かえって深冬がナオをどれほど特別視しているかを照らし出す。それこそが『少女支配』という物語だった。
○『少女支配』とつつい作品
『少女支配』の著者である筒井いつき氏は、つついという別名義でも本を出している。『ジャックポットに微笑んで』と『指先から滑り落ちるバレッタ』。いずれも百合姫から出ている短編集で、暗く重いタイトルの数々が収録されている点で後の『少女支配』との繋がりを感じられる。
人物面は特にそうだ。
例えば、深冬は『ジャックポットに微笑んで』表題作の主人公・一鷹佐紀的な人物だと言える。
佐紀のクラスメイトである亜弥は、他人のことを考えることができず自分本位を貫いている。だから亜弥の友人は佐紀だけ。けれど顔は良く、また恋愛に積極的でもある。
そんな亜弥に対して佐紀は独占欲めいた感情を持ってはいるが、それを表に出すことはない。それどころか、亜弥の告白を後押しさえする。
自身の感情と矛盾するかのような言動は佐紀の賭けだ。亜弥が誰かを好きになる。告白する。最後に失敗する。そしてそれを繰り返す。そのサイクルに助力と慰めという形で関わることで、亜弥が自分なしで生きていけないような状態にまで至ることが佐紀の目的。だから佐紀の言動は感情と矛盾しているようでしていない。
しかし、その賭けで佐紀が背負うリスクは大きい。性格はともかく亜弥は美少女なのだから、いつ告白が成功してもおかしくはない。それでも佐紀はチップを重ね続けるのだ。
佐紀のこうした性質は深冬との共通点だろう。
泉との行為は、「ナオが好き」という感情からすれば矛盾でしかない。また、いつかナオにバレるかもしれないというリスクを背負うことにもなる。
一見して不可解な深冬の言動はしかし、以下の心情によってある種の合理性を獲得した。
「もっと傷つけてほしい」
「私が傷ついて 心配しないでと私が言うたびに 曇るあなたの表情」
「好きだよ―ナオ」
自身の感情と目的のために一見不可解でリスクの大きい言動をとる。そういう意味で、深冬は一鷹佐紀的なのだ。
一方で、ナオは『あなたと星と夜明けに見た夢』(『指先から滑り落ちるバレッタ』収録)のみっちゃん的な人物だ。主な共通点は「幼馴染みの保護者的立場であること」と「幼馴染みが好きなのに何かを恐れて一歩踏み出せないこと」の二点。
まず前者だが、これはもう見たままである。深冬は学業こそ優秀だが引っ込み思案な一面を持つ。幼馴染みグループに加わったのも、ナオに手を引かれてのことだ。また実際の出来事かナオの幻想であるかは定かでないが、口周りにアイスをつけてしまいナオに拭ってもらうという少し抜けたところもある。
『あなたと星と夜明けに見た夢』の洋子は深冬とは対照的に活発な性格だが、それ故に行動が突拍子もない。それに付き合うのはいつもみっちゃんで、他の人には頼めないことを洋子も理解している。みっちゃん自身も、「「ガサツで自分勝手な」洋子を小さいころからずっと傍で見てきた」と認識している。
こうした保護者的立場が、二人に後者のような一面を備えさせたのかもしれない。
知っての通り、深冬が虐待され傷を増やしていくのをナオはずっと見てきた。故に、深冬が傷つくことをひどく恐れている。深冬と行為に及ぼうとした際、深冬が少し痛がっただけで狼狽してしまったのはそれが原因だ。
「一緒になっちゃう 深冬を傷つけてきたあいつらと」
対するみっちゃんが恐れているのは、洋子への好意が知られて現在の関係が失われてしまうこと。
「ずっと友達だったあなたを隣で私が一番見てきた」
「そして今も私の一番近くにあなたがいる」
「それが幸せなのに」
「きっとこの星空は私が手を伸ばしたら壊れてしまう」
とみっちゃんは語る。
恐れているものは違えど、ナオとみっちゃんは「保護者的立場の少女がある何かを恐れているが故に一歩踏み出せない」という点で共通しているのだ。
そうした人物面以外でも、「いなくなった者の幻覚との対峙」「幼少期にあった一場面のカットバック」など、『少女支配』とつつい作品の共通点は多数観測される。これについては別の機会があれば触れたい。
○『少女支配』と『骨が腐るまで』
他作品との類似性という観点ではもう一つ、別の著者が描いたある物語に言及しないわけにはいかない。内海八重氏の『骨が腐るまで』だ。『骨が腐るまで』は『少女支配』に先行して連載がスタートした作品で、両作には共通点が非常に多い。
・虐待された子とその幼馴染みグループが親を殺害する
・殺害した親の死体を山に埋める
・埋めた死体を第三者に発見され脅迫される
・不審点に気づき幼馴染みグループを追いつめる刑事
などが主な例だ。
それら自体は新規性のある要素ではないとはいえ、こうまで土台が共通しているとなるとどうしても比較の対象とせざるを得ない。
結論から言えば、前述の点でよく似た両作はそれぞれ全く異なる道を歩んでいくことになった。
『少女支配』の四人は、人を殺したという罪の意識がそれほど強くない。決してないわけではないが、そんなことより別に抱えているそれぞれの問題の方が彼女たちにとってより重要だったはずだ。ナオは深冬のことを、深冬はナオのことを、日菜はたっくんのことを、和希は自らの進路のことを考え続けていた。
それぞれの結末も、彼女たちのそうした性質に沿った形となった。
ボートに乗るナオはこう語る。
「天国にいる気がする 人殺しなのに」
罪の意識はある。けれど、そんなものは置いて「深冬がほしい」という本懐をナオは遂げたのだ。
他の三人も、罪の意識はさておいて己が目的に向って突き進んでいった。
深冬は罪を利用して「ナオと二人だけ」という理想を実現し、日菜は「望む形を手に入れるため」凶行に及んだ。唯一置いて行かれる形となった和希だけは、十年の間に多少罪の意識に苦しむことになったが、結局は自首することなく研修医として生きている。
対照的に、『骨が腐るまで』は道徳を説いた。冒頭から主人公たちが抱える罪の意識が丹念に描かれ続け、さらにはそれがミステリの仕掛けにおいて欠かす事のできないピースであったことが判明する。エピローグにおいて、ヒロインの一人である椿が語ったことは決定的だ。
「罪とは償うものではなく背負い続けていくものなんですね」
「やっぱり人は……人を殺してはいけないんです」
このように、『骨が腐るまで』は明確に道徳に重きを置いた作品だった。その性質は、前述した『少女支配』の性質とは大きく異なっている。
物語とは、究極的には何を書いても許されるものだ。だから、その内容が道徳的であろうとなかろうと、そのこと自体によって非難されるべきではない。畢竟、『少女支配』と『骨が腐るまで』の優劣は、道徳をどの程度重んじたかによってのみ決めることができない。
ではその違いによって得られるものは、優劣の判断でないのなら何なのか。それは両作の内容についてより深く検討する端緒だ。殺人は確かに犯罪であること、しかしそれ以外どうしようもなかった者たちにひたすら正論を投げることはある意味で暴力的であること。他にも、両作を比較することで明瞭に見えるものはある。土台を同じくし異なる道を選んだ両作が同時代に登場したことには、そんな意義があるのではないだろうか。