百合とお菓子と

パンナコッタ(@yuridake2018)の百合ブログです

『少女支配』総括 百合が好きで良かったと心の底から思える世紀の大傑作

『少女支配』は難しい。だから、完結からしばらく経ってもなかなかまとまった言及ができなかった。一方で、誰に求められたわけでもないけれど書かないわけにはいかないだろうと、謎の使命感だけは一向に消える気配がない。そんなもやもやを抱えて大体半年くらいが経ち、ようやく、ようやく何かしら書ける気がなんとなくしてきた。気がしてきただけなので、うまいことを書く自信は全くない。そういうわけなので、以下に連ねる文章はもしかすると、ひどく独りよがりで読みにくいものとなるかもしれない。しかし、作品に対する熱量だけは嘘偽りのないものにできるはずだ。というか、そうであってほしい。とにかくそんな気持ちで書くので、『少女支配』が好きな人もそうでない人も、時間があれば少しだけ付き合ってもらえるとありがたい。

 

ではでは。

 

○『少女支配』とはいかなる物語であったか

『少女支配』はこの上なく残酷な物語だ。そしてそれだけに、なにものにも侵食されない強固な関係性を描くことに成功した物語でもあった。

「あの山の向こう 何もなかったよ ナオ」

町を出た深冬は、エピローグにおいてそう口にした。苦しみに満ちた町に深冬を閉じ込め続けた山の先で待っていたのは、陰口や噂話が跋扈する世の中。一面では、そういったどうしようもなさを示した言葉でもあっただろう。

しかし、この言葉にはもう一つの側面がある。それは人と人の関係に纏わる側面だ。より具体的に言えば、それはナオと深冬の強くかけがえのない関係性を物語っている。

それを導き出すのは、「海」というキーワード。

物語冒頭、殺害した深冬の父の死体を埋め終えた直後に「この夏みんなで海行こう」とナオは提案する。それは、深冬が自由の身になったことの象徴としての提案だった。

読者の誰もが知っているように、彼女たちは結局みんなで海に行くことができなった。ナオは逃亡中に湖で行方不明、日菜は重傷で面会謝絶、和希は教師とのあれこれで手一杯だった上にそもそも深冬が嫌い。結果、幼馴染みグループはちりぢりになり、深冬はラストシーンで一人海に訪れることになる。

それが、この物語における変えようのない事実だ。

しかしいささか矛盾を孕んだ言い方が許されるなら、深冬の主観では事実たり得ない。

先述した通り、ナオが行方不明になったのは逃亡中に深冬と訪れた湖でのこと。そう。それはどうしようもなく湖でしかなかった。

にもかかわらず、二人はそれを海と認識した。夜がもたらす暗闇がそうさせたのだろう。事実としてそれは海ではなかったけれど、二人にとっては間違いなく海だったのだ。

翻って、山の向こうにある本物の海を深冬はどう認識したか。

「何もなかった」のだ。綺麗とか広いとかではもちろんなく、煩いとか寒いとかいったネガティブな感想ですらない。深冬にとって、本物の海は単なる無でしかなかった。

湖は海たり得るのに、本物の海に対してはなぜそんな認識なのか。答えは明白だろう。

「どうでもよかったから。ナオ以外なんて」

それは海もまた深冬にとってどうでもよい存在であったことを意味する。そんなものより大事なのはナオ。ナオが海に行こうと言うから笑顔で同意するし、ナオと一緒だから湖だって海になるのだ。

さて、ここでもう一度あの言葉を振り返りたい。

「あの山の向こう 何もなかったよ ナオ」

繰り返しになるが、この言葉は深冬にとって世界が如何にどうしようもないものであるかを示している。しかし、ここまで述べてきたことを踏まえれば、それだけではないのだと言うことも認められるのではないだろうか。すなわち、この言葉は深冬にとってナオが全てであることをも象徴しているのだ。

苦しみに満ちた場所を超えてすら何もなかった残酷さが、かえって深冬がナオをどれほど特別視しているかを照らし出す。それこそが『少女支配』という物語だった。

 

○『少女支配』とつつい作品

『少女支配』の著者である筒井いつき氏は、つついという別名義でも本を出している。『ジャックポットに微笑んで』と『指先から滑り落ちるバレッタ』。いずれも百合姫から出ている短編集で、暗く重いタイトルの数々が収録されている点で後の『少女支配』との繋がりを感じられる。

人物面は特にそうだ。

例えば、深冬は『ジャックポットに微笑んで』表題作の主人公・一鷹佐紀的な人物だと言える。

佐紀のクラスメイトである亜弥は、他人のことを考えることができず自分本位を貫いている。だから亜弥の友人は佐紀だけ。けれど顔は良く、また恋愛に積極的でもある。

そんな亜弥に対して佐紀は独占欲めいた感情を持ってはいるが、それを表に出すことはない。それどころか、亜弥の告白を後押しさえする。

自身の感情と矛盾するかのような言動は佐紀の賭けだ。亜弥が誰かを好きになる。告白する。最後に失敗する。そしてそれを繰り返す。そのサイクルに助力と慰めという形で関わることで、亜弥が自分なしで生きていけないような状態にまで至ることが佐紀の目的。だから佐紀の言動は感情と矛盾しているようでしていない。

しかし、その賭けで佐紀が背負うリスクは大きい。性格はともかく亜弥は美少女なのだから、いつ告白が成功してもおかしくはない。それでも佐紀はチップを重ね続けるのだ。

佐紀のこうした性質は深冬との共通点だろう。

泉との行為は、「ナオが好き」という感情からすれば矛盾でしかない。また、いつかナオにバレるかもしれないというリスクを背負うことにもなる。

一見して不可解な深冬の言動はしかし、以下の心情によってある種の合理性を獲得した。

「もっと傷つけてほしい」

「私が傷ついて 心配しないでと私が言うたびに 曇るあなたの表情」

「好きだよ―ナオ」

自身の感情と目的のために一見不可解でリスクの大きい言動をとる。そういう意味で、深冬は一鷹佐紀的なのだ。

一方で、ナオは『あなたと星と夜明けに見た夢』(『指先から滑り落ちるバレッタ』収録)のみっちゃん的な人物だ。主な共通点は「幼馴染みの保護者的立場であること」と「幼馴染みが好きなのに何かを恐れて一歩踏み出せないこと」の二点。

まず前者だが、これはもう見たままである。深冬は学業こそ優秀だが引っ込み思案な一面を持つ。幼馴染みグループに加わったのも、ナオに手を引かれてのことだ。また実際の出来事かナオの幻想であるかは定かでないが、口周りにアイスをつけてしまいナオに拭ってもらうという少し抜けたところもある。

『あなたと星と夜明けに見た夢』の洋子は深冬とは対照的に活発な性格だが、それ故に行動が突拍子もない。それに付き合うのはいつもみっちゃんで、他の人には頼めないことを洋子も理解している。みっちゃん自身も、「「ガサツで自分勝手な」洋子を小さいころからずっと傍で見てきた」と認識している。

こうした保護者的立場が、二人に後者のような一面を備えさせたのかもしれない。

知っての通り、深冬が虐待され傷を増やしていくのをナオはずっと見てきた。故に、深冬が傷つくことをひどく恐れている。深冬と行為に及ぼうとした際、深冬が少し痛がっただけで狼狽してしまったのはそれが原因だ。

「一緒になっちゃう 深冬を傷つけてきたあいつらと」

対するみっちゃんが恐れているのは、洋子への好意が知られて現在の関係が失われてしまうこと。

「ずっと友達だったあなたを隣で私が一番見てきた」

「そして今も私の一番近くにあなたがいる」

「それが幸せなのに」

「きっとこの星空は私が手を伸ばしたら壊れてしまう」

とみっちゃんは語る。

恐れているものは違えど、ナオとみっちゃんは「保護者的立場の少女がある何かを恐れているが故に一歩踏み出せない」という点で共通しているのだ。

そうした人物面以外でも、「いなくなった者の幻覚との対峙」「幼少期にあった一場面のカットバック」など、『少女支配』とつつい作品の共通点は多数観測される。これについては別の機会があれば触れたい。

 

 

○『少女支配』と『骨が腐るまで

他作品との類似性という観点ではもう一つ、別の著者が描いたある物語に言及しないわけにはいかない。内海八重氏の『骨が腐るまで』だ。『骨が腐るまで』は『少女支配』に先行して連載がスタートした作品で、両作には共通点が非常に多い。

・虐待された子とその幼馴染みグループが親を殺害する

・殺害した親の死体を山に埋める

・埋めた死体を第三者に発見され脅迫される

・不審点に気づき幼馴染みグループを追いつめる刑事

などが主な例だ。

それら自体は新規性のある要素ではないとはいえ、こうまで土台が共通しているとなるとどうしても比較の対象とせざるを得ない。

結論から言えば、前述の点でよく似た両作はそれぞれ全く異なる道を歩んでいくことになった。

『少女支配』の四人は、人を殺したという罪の意識がそれほど強くない。決してないわけではないが、そんなことより別に抱えているそれぞれの問題の方が彼女たちにとってより重要だったはずだ。ナオは深冬のことを、深冬はナオのことを、日菜はたっくんのことを、和希は自らの進路のことを考え続けていた。

それぞれの結末も、彼女たちのそうした性質に沿った形となった。

ボートに乗るナオはこう語る。

「天国にいる気がする 人殺しなのに」

罪の意識はある。けれど、そんなものは置いて「深冬がほしい」という本懐をナオは遂げたのだ。

他の三人も、罪の意識はさておいて己が目的に向って突き進んでいった。

深冬は罪を利用して「ナオと二人だけ」という理想を実現し、日菜は「望む形を手に入れるため」凶行に及んだ。唯一置いて行かれる形となった和希だけは、十年の間に多少罪の意識に苦しむことになったが、結局は自首することなく研修医として生きている。

対照的に、『骨が腐るまで』は道徳を説いた。冒頭から主人公たちが抱える罪の意識が丹念に描かれ続け、さらにはそれがミステリの仕掛けにおいて欠かす事のできないピースであったことが判明する。エピローグにおいて、ヒロインの一人である椿が語ったことは決定的だ。

「罪とは償うものではなく背負い続けていくものなんですね」

「やっぱり人は……人を殺してはいけないんです」

このように、『骨が腐るまで』は明確に道徳に重きを置いた作品だった。その性質は、前述した『少女支配』の性質とは大きく異なっている。

物語とは、究極的には何を書いても許されるものだ。だから、その内容が道徳的であろうとなかろうと、そのこと自体によって非難されるべきではない。畢竟、『少女支配』と『骨が腐るまで』の優劣は、道徳をどの程度重んじたかによってのみ決めることができない。

ではその違いによって得られるものは、優劣の判断でないのなら何なのか。それは両作の内容についてより深く検討する端緒だ。殺人は確かに犯罪であること、しかしそれ以外どうしようもなかった者たちにひたすら正論を投げることはある意味で暴力的であること。他にも、両作を比較することで明瞭に見えるものはある。土台を同じくし異なる道を選んだ両作が同時代に登場したことには、そんな意義があるのではないだろうか。